2021-03-17 第204回国会 衆議院 国土交通委員会 第4号
森鴎外という偉大なるお医者さん兼軍医さんだったんだけれども、児玉源太郎はこの後藤新平に頼むんです。そのとき、後藤新平は、一切全部自分に任せてくれ、一切余計なことは耳に入れないでくれといって、それを引き受け、三か月で二十三万人の検疫をやるんです。 一番最初にやったことは、瀬戸内海の離島と言われている島三つに検疫所を造るんです。大阪だとか神戸だとか東京だとかじゃないんです。
森鴎外という偉大なるお医者さん兼軍医さんだったんだけれども、児玉源太郎はこの後藤新平に頼むんです。そのとき、後藤新平は、一切全部自分に任せてくれ、一切余計なことは耳に入れないでくれといって、それを引き受け、三か月で二十三万人の検疫をやるんです。 一番最初にやったことは、瀬戸内海の離島と言われている島三つに検疫所を造るんです。大阪だとか神戸だとか東京だとかじゃないんです。
石井四郎軍医中将によって中心的に進められた。 こういった、ちょっと時間がないので深くは申し上げませんが、このように、学問に対して政治、軍事がかかわることによって不幸な出来事が起こったという、過去の我が国の苦い経験がございます。だから、憲法上、殊さらに二十三条において、教育の自由と区別した学問の自由を定めて、学問、研究に対して国家からの自由を定めたわけであります。
おやじは陸軍軍医で、医者でありました。おじさんは、最後の空母信濃の生き残り、海軍中佐でありました。 国防上最も大切なことは、アラビア湾にアメリカ軍を助けに行くことではなくて、原発をなくすこと。これは、自衛隊のOBの人に言わせると、三上さんの意見と同じだという人は山ほどいます。現役は何も言いません。三上さんに賛成だとも言わないが、反対とは誰も言わない。戦争になったら戦えません。
この色覚検査というのは、日本では、一九一六年、大正五年、石原忍陸軍軍医が徴兵検査用に色覚検査表、今では石原表と言われますが、を考案して、これが一九二〇年から学校の身体検査でやるようになったのが始まりだというふうに聞いております。それからですから、八十年以上やっていたわけです。
戦傷病者の方々を救護した軍医でありますとか従軍看護婦の皆さん方の医療活動に対します資料、先生おっしゃいますとおり、多く集めて保存をしております。施設も医療用具も整っていなかった大変困難な状況の中で医療活動を行っていた先人の方々の労苦を学ぶことは、これ現在の医療従事者の方々の心構えにもなる、影響を与えることがあるのではないかと、そう考えてもおります。
皇軍慰安婦、皇軍将兵への贈り物として望ましいのは朝鮮女で、しかも若いほどよい(十五歳以下が望ましい)という軍医の報告により、朝鮮人女性が軍事物資として犠牲になったのです。慰安婦の証言によれば、役人や警察、軍人が暴力的に拉致していく場合もあったそうです。その対象になったのは、ほとんどが十代の若い女性たちで、中には十一歳の女性もいました。
七三一部隊所属の金子順一軍医少佐による論文集であります。この中で、昭和十五年から十七年まで、六回にわたる細菌作戦が実施をされた場所、効果等がまとめられているわけです。
これは布教のためなんですが、そこで、実はペリーがちょうどそのときにやってきまして、ペリーがアメリカに帰るときに、サスケハンナ号だったと思いますけれども、その船に乗ってベッテルハイムはイギリスに戻らずにアメリカに渡り、そこでまた南北戦争の軍医として従事をする。
○川田龍平君 このミドリ十字の前身の日本ブラッドバンクの創設者の内藤良一氏というのは、帝国陸軍七三一部隊の軍医中佐だったというのを大臣は御存じでしょうか。この内藤氏の死後、社長となった松下廉蔵氏は、薬害エイズの被告人であり、当時の厚生省からの天下りでしたが、それについては御存じでしたでしょうか。
医者としての最高位、軍医総監に上り詰めましたが、一時は北九州の小倉に左遷され、同期におくれること八年にしてその地位に就任しました。文章力は抜群、ドイツ語堪能の才能の人でありましたが、行政マンとしての評価は必ずしもそれと一致するものではありません。森林太郎は、白米を食べさせる条件で兵隊を募集したのだから、その政治的意図に沿い、兵隊に白米を食べさせることを主張しました。
我は石見の人、森林太郎として死せんと欲すというのは森鴎外の最後のころの遺言か何かにありましたけれど、軍医総監でもない、大文豪でもない、石見の人。私はこのごろそのピアノの先生の例見てちょっと意見が変わっているんですよ。
是非その意味で、最初に引かれた宮崎県高岡町出身、元軍医、初代海軍軍医総監高木兼寛の話はすごく印象に残りました。あの人は、相手側の方と、陸軍総監と対比される方でしたけれども、なかなかな人物だったと思いますので、あの方の話を聞かされたのはすごく印象に残りました。ありがとうございました。 御質問にお答えします。
これはいわゆるそこに旧陸軍軍医学校があって、そのところでそういう人骨が発見されておると。 二年前に川崎元厚生労働大臣が、元看護師の証言を受けて、ここにほかの場所にも遺骨が埋まっているということを証言して、それをできるだけ早く調査しようということになっています。簡潔に、二か所あるわけですが、今後の見通しを一言ずつお答えいただきたいと思います。
人骨の由来調査につきましては、当時の陸軍軍医学校関係者等に対して面接による聞き取り調査や質問票等によるアンケート調査などを行いまして、平成十三年六月にその結果を公表いたしました。この報告におきましては、発掘された人骨が旧陸軍軍医学校が処分した人体標本に由来すると一応推測されるとしており、この結論を踏まえれば、国が埋葬及びそれまでの間の保管に当たるべきものと考えられます。
○郡分科員 今御答弁いただきました軍医学校時代の標本類、あるいは標本製作用の医学教育用に集められた死体の一部であったろうという調査結果が出たわけでございます。 きょう、実は川崎大臣に事前に写真をお見せいたしているかと思います。私もこういうふうに提示をさせていただくのが大変つらい思いもいたしますんですけれども、これが当時発見された骨の一部でございます。
○外口政府参考人 戦時国際法等についてお答えする立場にないかもしれませんけれども、人骨につきまして、やはりそれが医学の標本として軍医学校に保有されていたという可能性があるわけでございまして、こういったことにつきまして、私ども、その土地の管理者の立場からいろいろな調査をしてまいりました。先ほど申し上げましたような面接調査あるいはアンケート調査、それから軍医学校関係の資料の調査等を行ってまいりました。
大体全員が二カ月に一度ぐらい医務室に呼ばれて、軍医に素っ裸にされて、おしりの肉をつままれて、どれだけ肉がついているか、極端にやせている人は病弱ということで送られる。 その中で、船に乗って、ああ、日本に帰れると思ったけれども、大体一そう二千人の捕虜が詰め込まれて、船で長時間運ばれ、そして着いた港は日本かと思いきや、北朝鮮の清津というところだった。
それからもう一つは、六年間も掛けて専門の教育をやるわけでありますから、これは私は別途聞いた話でありますが、戦後、軍人が復員してまいりまして、その中の軍医というのがある数の人口、数がおりまして、その人たちが医師としてやっぱり開業をするということになったときに、医師の養成上、その数との関係で非常に難しい問題が長い間あったということは聞きます。これはまた話は別ですが。
そこで、大臣、もう一つお尋ねしますが、先日、元アメリカの軍医、核医学など専門のアサフ・ドラコビッチ博士が日本で講演をされまして、二度、ここ一年で、昨年十一月にもお見えになっているそうですけれども、いわゆる劣化ウラン弾でサマワ米兵汚染ということで、こういう米専門家が発表したということで報じられておりますけれども、この記事はごらんになりましたか。
あなたに何か問題があった場合はすぐ基地に戻り、すぐ所属する部隊の軍医官に相談をしてくださいという、国防省のホームページからも情報を得ることができます、こういうカードを配っています。 日本は自衛隊の人たちに対してどう説明をしたのでしょうか。
メディカルサービスマンというか、かつて軍医の経験のあった人だとか獣医さんだった人とか、医師が不足なものですから、そういう人たちに、日本の医師制度とは違う枠組みで医介輔制度みたいなものをつくって、現在でも、ごくごく少数でありますが、活躍をしておられる医介輔がおられます。もちろん、離島の診療所で活躍をしているわけでありますが。
なお、その国防省の幹部軍医が最近発表したところによりますと、イラクの自由作戦における自殺者は十九名とされております。また、その国防省の死亡公報上、死因が特定されていない事案は三件と承知しております。